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30年前のバックパッカー日記~30年前ならではの楽しみ~

30年前の貧乏旅行ならではのささやかな楽しみを一つ。国境を出るときの楽しみなのだが、当時はユーロなんていう通貨は無くヨーロッパ諸国はそれぞれの国の通貨を使っていた。もちろんEUさえ無かった時代だから(前身のECはあったよな?)国を出るときはその国の通貨を何とかしなければならなかった。選択肢は二つ。元々持って行っていたアメリカドル($)に戻す(当時は最強通貨だったのだ)又は、使ってしまう。大体は少ししか残っていないので後者の選択になる。

スイス出国までは特に切り詰めた生活をしていた。最初に持っているお金、全てをUS$に変えてしまったので為替レートの大きな変動に対応できなかったのだ。当時は分散することでお金のリスクは回避出来るなど到底理解していなかったので出国前の計画を到着早々、変更せざる負えなくなった(※: https://noragarden.work/2018/05/04/ロンドン~番外編~/ ‎参照)。その後物価が高い地域を回っている間は本当に節約生活であった。日々の食べ物はパン、ワイン、チーズが基本で、荷物にいつも1セット入れていた。外食はおろか暖かい食べ物さえほとんど口にしていなかったがパンやチーズはそれぞれのお国柄があってバリエーションに富んでいたし、ワインやビールも安くて美味しいものが沢山飲めたので特別苦しいとは思っていなかった。ドイツの酸っぱくて重たいパンや、ものすっご~いくせの強いチーズを買ってしまったことも、それはそれで旅の思い出であった。そして出国の時、残ったその国のお金が両替するほどでもないのなら使ってしまおうと思いレストランに入る事になるのだ。今でも覚えているのはオーストリアを出国するとき食べた食事だ。何の変哲もないミートソースのパスタ、卵の黄身が浮いているコンソメスープ、サラダ(自分で塩、酢、オリーブオイルをかけて食べるとてもシンプルなものだが、自分で味を調整して食べるからだろう、初めての美味しさの感覚だった)たったこれだけなのだが、30年以上たった今でさえ、とても鮮明に覚えている。人間贅沢していない方が幸せを余分に感じるという事だろうか?さらに残った小銭はお土産にみんなにあげたっけ、結構喜ばれたよな。お金って不思議な力を持っているんだろうね、使うこともないのに貰ってこんなに嬉しいなんて。

時は過ぎ世の中の通貨事情は当時からは想像だにつかないほど変わったUS$絶対でもなくなり、その後釜と目されたユーロもあまり元気がなく。変わって円や元といった東洋の通貨が台頭してきている。それでもお金そのものの性質は何も変わっていないようにも思えるが、さて仮想通貨やAIなどが当たり前になってもこれは変わらないのだろうか?50年生きた知識を持ってなんとか見極めていきたいものである。

アルプスを越えて

時は1985年。9月末になるとおかしな噂が耳に入ってきた。「阪神(タイガース)強いんだって」それからはボクは、事あるごとに日本大使館やJALのオフィスなど日本国内の新聞が読める場所に出没していた。海外に長期間旅する野球ファン(特に阪神タイガースのファン)にとっては気になって仕方のない事情であった。そうあのカーネルサンダース事件の発端となった阪神タイガース21年ぶりのセントラルリーグ優勝の事である。※カーネルサンダース事件とは優勝に狂喜したファンがケンタッキー・フライド・チキン道頓堀店(今はない)のカーネルサンダース像を道頓堀に投げ込んだ事件。今のようにインターネットでなんでも出来る時代ではなかったから、ちょっと日本の事情を知ろうとすると、案外あたまを使う必要があり、手間もかかったのである。素晴らしきかなテクノロジー!AIバンザイ

この辺りは当時のボクには、ものすごい物価高。夜行電車で宿代を節約し、昼間はお金のかからない美術館、博物館めぐりをして過ごした。博物館には鎧、甲冑ばかりがあったような気がする。美術館には豪華な食品を描いた静物画(※朝食画、晩餐画と呼ばれる静物画の一ジャンルである)だ。いずれも富と権力の象徴なのだろう何百年たった今も、ものすごい主張をしているのだからすごい!そしてこの辺りの国境越えもドイツ、ベルギー間とはずいぶん違っていた、とても和やかだった。ドイツ国境警備の人はドーベルマンを連れておかしなもの(禁止薬物)を持ち込んでいないかとピリピリと調べていたのだ。

そんな中ハンブルグでは、屋台のうまいニシンの酢漬けに舌鼓を打ち。ザルツブルクではサウンドオブミュージックのビデオを毎晩見て(ユースホステルで毎晩上映されていた、ちょっと違う?)芸術の都ウィーンを経て、今回の目的地の一つスイスを目指した。あの雄大な自然、ハイジが暮らす世界をぜひ見てみたい!

サンモリッツの湖と霧の幻想的な風景を後に、マイエンフェルトへ。駅には日本語の案内もあり、ハイジの村へは簡単にたどり着けた。デルフリ村は実在しませんがアニメに出てくるハイジの家など、そっくりの建物などが沢山、観光用に作られたのでしょうが矢張りその前で写真をパチリと撮ってしまった。

マイエンフェルトの自然は本当にアニメ「ハイジ」の自然そのままで巨大で重なり合う木々、あの遠く遠く望む山々につづく真っ青な空、うそ偽りのないそのままの美しさに言葉も無くただ見つめるだけでした。

 

西ドイツへ~人間って一人では生きられない~

西ドイツへ!(当時ドイツは西と東に分断されていました。ここでドイツと書いてあるのは当時西ドイツと呼ばれていた地域のことを指します。)ドイツ最初のユースホステルで会った日本人と話して分かったのはあと3日早くここへ来ていたら、日本人初のプロサッカー選手(一説にはさだまさし氏の実弟のほうが先だとする説もあるらしいですが)奥寺康彦さんに食事をご馳走してもらえたという事であった。正直ものすごく残念だった、一週間や10日ならまだしも3日なんて…。

気を取り直して。観光とスーパーの「チーズ、パン、ワイン」。何よりも釣銭をごまかされる事への警戒をしなくて良かった事が印象的だった、お客とお店という対等の立場での関係が心地よく、とても安心出来た。というのが当時のドイツの思い出だ。物価が高く外食なんてとても無理で毎日上記の3点セットを食べていた、若いからできたのだろう。それ以外ではマクドナルドでビールが飲めるのも驚いた。あとドトールコーヒーによく似たコーヒーショップも利用した。(後で知ったが、ドトールの社長はドイツで見たコーヒーショップをヒントに創業したという事だ)

そんな時に何人かの日本人と一緒に東ベルリンに行った。その後日本に帰ってからも何度かお世話になることとなった「本保さん」デザイナーをしてらして、当時はまだ広告の仕事を始めていなかったものだから’’あ~そんな仕事があるんだ~’’くらいの印象だった。Y峯さんご夫妻、O津さん合計4人で東ベルリンへあちらこちらを見て回ることもないので壁の近ではなくテレビ塔のそばのレストランでへ厚みが薄くあまり美味しくないステーキを食べた。

若い人はよく分からないかも知れないので少し説明を。当時ベルリンという町は東ドイツと言う国にあり、西ドイツに属する西ベルリンと、東ドイツに属する東ベルリンに分かれていました。西ベルリンをぐるりと囲む形でコンクリート壁が物理的に町を分断していたのです。文書にするとなんだかドラマチックですが壁の崩壊もしかりである日突然「今から即刻壁を開放し自由に往来出来る」という趣旨の発表がされるのです。

この大都市への観光ののち再び一人で行動するのだが、一週間たったころから精神に変調が現れ始めた。自分で気づいたのだが。若いころは一人でなんでも出来る、生きていけると思いがちだがが一週間ほど人としゃべらないだけで心は苦しみだしたのだ独りぼっちがこんなにも不安なものだとは、この旅をしなければ全く気付けなかっただろう。

いざドーバー海峡をこえて

イギリスとヨーロッパ現在はトンネルでつながっているが、30年前はドーバー海峡を越えるのにフェリーを使った。

オランダに到着してすぐユースホステルを探すことにした、一人だったし日本人にも遭遇していない。とりあえずは寝る場所を確保をしておこうと考えたのだ。ガイドブックにある一番近いユースホステルに歩いていくことにしたが、地図で見ても遠い場所のようだった、案の定かなりの距離である、その上、自分の歩いている道といえば日本では自動車専用道路といった雰囲気である。もしやハイウェーを歩いているのでは?と不安になりながら目的地を目指していたのだが、道の脇の草原にはイギリス同様ウサギが走り回っている。さすがヨーロッパ「ピーターラビット」がそこら中にいるのか!

到着したユースホステルは合宿に使われそうな雰囲気の宿であった、スーパーにちょっと行くという事が出来なかったが、予約しておけば食事は出して貰えるとの事。早速お願いした。出てきたのは’’ラザニア’’名前は聞いた事があったのだが食べるのは初めてだったあとはスープの自動販売機が置いてあった。食事はそれなりにという感じだったが、驚いたのはトイレの便座が無いことだった。この時はまだ気づかなかったが、この旅の間、便座のないトイレにはさんざん遭遇することとなった、そのうちトイレには便座があってほしいと願うようになるほどに。

ブリュッセルはガヤガヤした都会という印象が強かった。小便小僧を見たり(とても質素なもので驚いた)ミュージアムに行くなどしたが、公営のミュージアムは大体どの国でも入場料は無料か100円くらいであった。日本ではデパートでのちょっとした展覧会でも数百円かかることを思うとこういったものに対する考え方が全然違うのだろう。そしてブルージュ。説明するまでもないが本当に美しい古都だ、そして「レースがすごい!」と男でも思った、こういったものが好きな女性ならばぜひ足を運ぶべきだろう。後で知ったが、レースというのは宝石の代わりだったらしい。徳川吉宗のような王様が贅沢禁止令のようなものを発令すると貴族たちは宝石はしまっておいてレースを身にまっとったようだ。

最後に「フランダースの犬」で主人公のネロが見たがっていたルーベンスの絵を見て終わりベルギーはフィニッシュとなった。

ロンドン~番外編~

初めての海外旅行、 ロンドンに滞在し1週間、次の町に行くにしても少し練習をしてみないと不安だった。そのほかにも心配事は尽きなかったが。物価は高くタバコなんて当時の日本人には冗談みたいな値段、食料品も高くて外食なんてとても出来ない。何といっても1ドル240円の時代だから。そしてロンドン到着直後にあの伝説の「プラザ合意」があり1ドル240円はさらに厳しいものになったのだ。当初の見通しが甘かったのだろうか、このままでは3か月の予定が大埴に短縮しそうな予感がしていた。それでも旅を続けられるかどうかはお金よりボク自身の問題が少しだけ大きかった。それで予行演習をかねて、夜行バスでリバプールを目指した。

夜行バスから見える景色はまるで大きなゴルフ場のようだった。なだらかな丘陵地帯がつづき木はほとんどない(昔のイギリス人が森の木々を大体切り倒してしまったという話は本当だったようだ。)日本ではすぐに鬱蒼とした森や幾重にも重なる山々を見るのは当たり前のことなんだが、「所変わればこんなにも違うのか」と関心する。

リバプールの町に着くとどっしりしたつくりの教会が目を引いた。当時はキリスト教についてあまり知らなかったがら町のど真ん中いて絶対的な存在感を放つ教会にはとてもビックリしたのを覚えている。

ビートルズ博物館に行くなどごく地味な観光になったが最後までシツコク現地の不良に追い回された。(多分)中学生くらい^の3人組だったかな、そんなに情熱があれば貧乏そうなバックパッカーを追い回さなくても、もっと楽しいことが沢山出来そうなもんだが、彼らは現地の社会で生きていくにはあまりに不利な立場だったという事なのだろうか?そして自分がとても情けなく思えた。こんな子供になめられ、これではまるで的を付けられ放たれたチキンのようではないか。

そうだ!しつこいようだが本場のフィッシ&チップスは本当に絶品であった。新聞紙を円錐状に丸めた所に揚げたての魚のフライとポテトフライをいれて塩とビネガーをかけただけのシンプルなものだかとても美味!!

そして日が暮れるころロンドン行きの夜行バスにのりリバプールを後にした、「これならロンドンを離れ(日本に戻らずに)旅を続けられるだろう。」と少し安堵感を抱きながら、なだらかな丘陵地帯を眺めていた。