ヨーロッパからアジアへ

ポルトガルから出発

ヨーロッパも南の国々では

あきらかに(イギリスやオーストリア等とは)物価が違い

ボクのお財布にも少し余裕が出てきた

 

そこでもう少し冒険を続けることにした

ポルトガルから一度アテネに戻り

そこから列車にのって

地中海を渡りトルコを目指した

 

ポルトガル出発の前日

牡蠣の缶詰めを食べていたぼくは

その後、体調不良に見舞われる

牡蠣が原因とは思えないが

兎に角何もすることが出来ず

一日駅のベンチで寝る事になった

日本から持参した薬が効いたのか

一日で何とか持ち直しフェリーで

一路アテネに向かう

 

フェリーの乗車券は何と

甲板にしか滞在できないチケットがあった!

前日の体調不良の事もあり

追加料金を払って船内のソファーには座れる

チケットにした

 

船内にはマティスの「ダンス」があった

勿論ポスターだがとても印象に残っている

 

当時はマティスさえ知らないボクだったが

本物とはこういう無知な人間にでさえ

多くの物語を語りかけてくる

 

アテネについて

ユースホステルで一泊した

駅にはいってみたものの

何か言葉にできない恐怖を感じて

分かりやすく言えば

ヨーロッパとはまた違う世界に渡ることに

怖気づいてしまったのだろう

 

 

翌朝起きて持ち歩いているパンで朝食を済まそうと

カバンをあけると!!

ネズミがボクのパンをシェアしていた

パンの耳全部と

柔らかいところも半分残してくれてはいたが

食べる気にはならず(当たり前)・・・

そしてボクは新たな世界へ旅立った

 

 

 

トルコへ
駅で変な東洋人に出会った
アーミーキャップをかぶり
痩せて目がギョロギョロして
やたらひげが濃い
ちょっと警戒しつつ話してみると
日本人だった(沖縄の人だった)
目的地は同じだったので同行することになったが
この道連れ、この先30年以上続くとは
当時まだ全くもって想像もしていなかった
(これはまた別のお話)
イスタンブールへは列車で到着
ギリシアとトルコ
なるほど未だ確執のある国同士
というのも納得の距離だった
世界三大料理と呼ばれるだけあって
とても美味しいご飯にありついた
さてカッパドキアに行こう
バスで2日の工程だ
ターミナルには行ってビックリ
野球のスタジアムのような広い場所に
人、人、人、そして
あらゆる方面行きのバス
とても目的のバスにたどり着けそうもない
と思った瞬間
子供がやって来て案内してくれた
バス会社に雇われているようだ
バスに乗ること丸二日
テレビで見た
コロンをバスの運転手が乗客に配るシーンが
現実のものとなって目の前で展開された
乾燥しているのでそんなに臭わないのだが
(ボクはそう信じている)
カッパドキアの近くの街でバスを降り
当時はそこからヒッチハイクだ
この工程は何似に例えたら良いだろうか?
スターウォーズ・エピソード4で
C3POとR2-D2が砂漠の星を
とぼとぼ歩いていた感じに似ている
とても地球上の光景とは思えない様な景色
遠く地平線の向こうまで続く道から
蜃気楼のように現れた影
(ロバとおばあさんだったが)
少しづつ近づいて来た
結局乗せてもらっは
トウモロコシを積んだトラックで
スピードメータがカメとウサギだった
(冗談ではなく本当に数字で無く絵が描いてあった)
そうだなやっぱり
猿の惑星みたいだな
ちょっと似ているけど
なんだか違う星に来たような
違和感
カッパドキアには今でも人が住んでいる所もあり
ぽつぽつと明かりがともっている洞窟もあった
不思議な異世界だった
旅のエンディング
再びアテネに帰った僕たち
ボクはローマ観光をしてから帰国する
彼「ジュンジ」はアフリカへ向かうらしい
その風貌にその帽子
アフリカに行ったらきっと
レッドアーミー(日本赤軍とういテロリスト集団)
に間違われるから危険だと告げると
彼も納得して帽子をボクに預けた
この出来事がこれから30年以上の
道連れに関係するのだ
とりあえず「ジュンジ」とはここで一旦別れ
ボクはローマ観光に
そこで出会ったIさんが何と醤油くれた
卵にかけて食べた醤油の美味い事!!
長期旅行に醤油は必需品だ
向こうのお肉は厚切りだが
スライサーの目盛りが大きいわけでは無い
薄切りに使ったことが無いだけだ
厨房の中に入って
ボクが目盛りをセットして
肉をすき焼き用にスライスしてもらった
その時いた日本人たちですき焼きパーティーをしたのだ
現地を離れる時に日本食でパーティーもなんだが
出発までローマの遺跡巡りをした
何処へ行っても
ネコ、ねこ、猫
皆、ご飯をくれるスポンサーがいたのだろう
大きくて幸せそうな猫ばかりだった
その後日本で自分が野良猫に
ロックオンされるとは(二度も)思いもしなかったが
この出来事もその後の人生に大きな影響を及ぼすのだ
チケットの期限ギリギリまで
現地で遊んだ
国鉄の社員食堂を見つけて
利用していたので
食事にも苦労しなかった
出発当日
アテネの空港はストライキがあった
何時間待っても出発便の案内が出ないのだ
それもあちらこちらの空港でだから
もうぐちゃぐちゃだった
結局、帰りもカラチで一泊となった
ストで遅れたためカラチからの便は
ジャンボ機に4、5人の乗客しかいない状態で
日本まで飛んだ
もちろん4座席の手すりを上げて寝て帰った!
帰って何をしようか!
とりあえずローマで決めたことがあった
成田から大阪まで歩いて帰ろう!
さあ、また楽しいぞその思いと共に
飛行機は無事成田に到着
そして第一回目の東京➡大阪の冒険が始まるのだ
そして次の冒険は新聞にも載るのだが
つづく

ポルトガルの風景

列車から見た衝撃の光景

列車から見たポルトガルの光景はボクには

映画「ウエスタン」の世界だった

ヨーロッパと一言で言ってもやはり広いなと思った

民族性も気候風土も全く違う

こんな土地があるからセルジオ・レオーネ監督も

ウエスタンの様な映画が撮れたのだろう

余談だがフランスでもつい100年ほど前までは

パリから30㎞も離れると言葉が通じなかったとか

日本でも明治の初め頃は皆、出身地の言葉で喋っていたので

会話が成立しなかったため標準語が制定されたらしい

という事は日本の方が少し進んでいたという事だな

 

列車は田舎町の駅に止まっていた

駅の売店をふと見ると

駅の売店なのにサラミが大量にぶら下がっていた

あれをナイフで切りながら食べるのだろう

それにしてもあんなにたくさん売れるのだろうか?

心配になるほどの数が店先に吊り下げられている光景を今でも思いだす

そして笑ってしまうのだった。

ポルトガルまで来るとヨーロッパという感じが少し薄らいでくる。

 

ロカ岬

とても美味しかったが料理の名前は忘れてしまった

串に刺した肉を焼いたもので

知り合った日本人の人にご馳走になった

ロカ岬に行って

「ユーラシア大陸の東の島から西の端までやってきたぞ~」

と納得していたのだ

海を隔ててあっちはもうアフリカなのだが

以外に涼しかった記憶がある。

 

岬で(病気だったのだろう)犬がよだれを垂らしながら(狂犬病か?)ヨロヨロと

歩いていたのが印象に残っている。

あんまり強烈だったのか今でもテレビでロカ岬を見るとこの話をしてしまう。

大陸の東から西なんてこの犬には全く知らない世界の話

同じ場所と時間に存在しながら

種が違うとこんなもんなんだな

これなら地球人と地球外生命体の方がまだ近い存在だな

 

以外に観光をしていなかったポルトガルだが

印象度で語れば結構その存在感はすごかった

 

再びフランスへ

あまり大したことをしなかったポルトガルを後に

再びフランス、リヨンに戻った

ここでフランスを出るときから一緒に行動していた

Mさんとはお別れしたのだった

 

つづく

 

 

ポルトガルへの道すがら

特別、見たかったガウディーを満喫した後

スペインを後に一路ポルトガル行きの列車に乗った僕たちを

向かい受けた(というよりは僕らが乗っている8人用コンパーチメント

に彼女たちがやってきた)旅回りをしているダンサーチームのメンバーたち

60歳くらいの人ママ(リーダー)を筆頭に50代、30代(一番若い子は

10代だろうとても魅力的で可愛らしかった。)総勢6人の女性が僕たちの

旅の道ずれとなったのだ。

 

最初は少し緊張したがこちらから挨拶すると、とても人懐っこい彼女たちは

すぐに打ち解けて(?)楽しいパーティーとなった。

似顔絵を描いてあげたりボクのウォークマンを聞かせてあげたり

あんまり楽しそうだったので国境警備のポリス2人もいつの間にか加わり

列車はポルトガルに向かっていったのだった

 

多分彼女たちは今でいうロマの人達だろう。当時はジプシーと言ったいたが

現在は差別的な表現という事でロマというらしい、(ジプシーキングスという

バンドもあるしなー、そう言えばローリングストーンズなんかも

同じ意味では?とちょっと思ったりもする)こうやって楽しく仕事品がら

各地でダンスを踊る生活もあるんだな。

 

ウォークマンと本

今はスマホとかタブレットなど持ち歩ける娯楽が沢山あるけれど

あの頃、普通の人の旅のお供は本かウォークマンぐらいだった

カセットテープ(若い人は見たことないというのも珍しくないだろうが)

にはサザンオールスターズを入れていた。だから今でも

サザンオールスターズの曲を聴くと、結構当時の事を思い出すのだ

今は当時の順路なども写真を見ながら思い出すのが精いっぱいなのに

音楽と記憶が結びつくとこんなに強固な思い出になるという事だな。

 

本は「竜馬がゆく」司馬遼太郎著の最終巻だけを持って行って

何度も何度も読み返していた。そしてある考えが頭をよぎったのだ

 

東京から大阪まで歩いたらどうだろう、

どんな感じがするんだろう

竜馬は京都、江戸を何度も往復している

当時はこれが普通だったのか。

やっぱり自分もこれをやってみよう!!

そう、ボクの中ではヨーロッパで冒険中に

すでに次の冒険プランが出来上がりつつあったのです。

バルセロナ~ガウディーによせて~

そしてこの旅の目的の三つめガウディーの作品を見るためバルセロナにやってきた!なぜガウディーに興味を持ったか?サントリのテレビCMだ1982年の放送らしいが興味のある方はこちらでどうぞ

30年以上前のCMなのだがこうしてインターネットが出来たおかげで今でも見る事が出来る、当時は全く想像もつかないことだった。だからあと30年も生きたら一体世の中どんなに素晴らしくなっているのだろうとおもってしまう。そういえば!第二名神の工事も地上から見ているとすごっくて天空を橋とトンネルで駆け抜ける道路という感じで、しかも端の部分だけがニョキニョキと両サイドからのびてつながっていく!ボクが土木業に関わりだした頃には想像もできない様子だ。少し話が横道にそれたが、人生の旅こそ本当にミラクルの連続なんだな!最近つくづく思う。

ガウディーの作品や生涯についての説明は他の人に任せて、ボクは今、造園業をやっている人間の視点を交えながら少し紹介してみたい。

彼の作品で目を引くのはトカゲなど美しくない事はないが嫌いな人も多い動物をモチーフとして使っていること、それに日本では見たこともないようなモザイク、サグラダファミリアの正面マリア像が抱く幼子キリストは(本当かどうかは知りませんが)実物からかたどったという説もある。こういったものがなぜか安心感を与えてくれたのだ。そして製作期間も当時はあと数百年かかるなどと言われていたのだが、それでも作り続けるその価値観にも驚いた。基礎を築き一歩ずつ未来へ託していく、目先の価値観では図ることの出来ないものを造っているといったら良いのかな、だからこそバルセロナのランドマークにもなり民族のアイデンティティーになっていってるのかもしれない。日本にもそういう特別な公園はあるがやはりそういう建造物は歴史的な価値をもっているものだ。

一緒にバルセロナ観光をした人と最後に話していたのだが「サグラダファミリアは母親の子宮の様な感じがする」と当時のボクでも特別な場所で未来の歴史を生み出しているように感じたのだろう。

アルプスを越えると違う!

さあ!モネを堪能したから列車に乗って出発だ!とばかりにパリからマルセイユについた。ここらへんで大きな変化に気づいたのだが、物価が全然違うのだ、ユースホステルに泊まることは無くなってきた。安宿に格上げしたのだ。(格上げ?参考までに当時の安宿は19世紀初頭の映画に出てくるような籠が2重になっていて扉を自分で開けるスタイルのエレベーターに口に含むのははばかられるような茶色い水が蛇口から出てきていた。)ただ安い飯がうまくなってきたのは間違いない。だからもしこの旅が逆回りだったらお金を大事に使うという事には目覚めず、マルセイユを越えたらあっと言う間に所持金を使い果たし帰国の途についていたであろうと今でも思っている。本当に偶然なのだがこのコースで旅する事が出来て本当によかったのだ。

一路バルセロナを目指し電車に乗っていたのだか徐々に電車も変化していった、綺麗で速いスピードの電車が汚くて(失礼な言い方だったらごめんなさい)スピードが遅くなっていった、場合によっては同じ列車にのっているのに遅くなって行くのだ!そして駅のキヨスクにはサラミがぶら下がり。サラミが悪いのではなくて駅の売店にぶら下がっているのを見たのはヨーロッパ来てから初めてだという事です。最後に乗った列車は窓ガラスも一部なく、自分で走った方が早いのではないか?と思えるようなスピードでバルセロナに到着した。なぜだ?

バルセロナでは昼になると町から人が消えていくのだ、オカルトではなくシエスタである。暑いので働くより休んでおこうという発想からはじまったのだろう、昼食後に昼寝をする習慣の箏をシエスタという。我々働き者の日本人から見ると衝撃である。僕も決して働き者ではないが明るい町から人が消えていなくなり、夕方になると「どこからこんなに!」と叫びたくなるような人込みになるのだ。そしてシエスタの時間帯は大きな物音などは立ててはいけないというルールもあるそうだ。

ところ変われば色々な風習があるものだが、列車のスピードやシエスタそれに駅の売店のサラミなどは、これまでの国境越えでは見られなかった大きな変化だと感じながら今回の旅の三つ目の目的を果たすべく、僕はバルセロナの町に繰り出すのだった。