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ロンドンでの感動~そして映画の見方が変わった~

空港からロンドンの町までは地下鉄での移動。正面に座っていたカップルがキラキラしすぎてまぶしかった、中学生くらいの二人はなぜか映画「メロディー」(邦題小さな恋のメロディー)の主役二人にそっくり、お互いの耳元で何かささやき合う幸せそうな姿は天使か要請のようだった。ロンドンでの初日はスティーブさんが知っていた安いホテルに行ったが、残念ながら満室であった、みんな考えることは一緒ということだな。急きょ歩いてその近辺の空いているホテルを探すことになったのだ、歩き回ってなんとかその日の宿は見つけることができた。(ここの朝食も美味しかった。)それから夏休みで一般人も泊まれることになっていたオーウェンさんの留学する大学の学生寮に移った。

とにかく学生寮での朝食はおいしかった。「イギリスはおいしい」というエッセイを読んだことがあるが、全くその通りである「フィッシュ&ポテト」はもちろん、焼いたたジャガイモにチキンカレーをかけたのも美味しかった!お金のないボクでも十分満足出来る食事ばかりだった。現代ならSNSに写真を投稿しまくりだろう、便利な世の中になったものだ。

ロンドンは本当に綺麗な街であった。ほとんどの建物は古風でカッチリとしたつくりであった、そのため町全体の調和も保たれているのである、そして、いたるところに公園があったのだ。芝生の美しい様々な公園の中でもボクが驚いたのはパブリックでありながらクローズされている公園であった。映画「ノッティンヒルの恋人」に登場した公園である。夜の公園に二人で忍び込むのだがこれが部外者は利用できないのだ。地域の住民が共同で管理している公園で、利用できるのは鍵を持った住人だけ。その考え方に驚きながらもそういう空間が日本にもあれば良いなと漠然とではあるが、このとき感じたのだった。

もう一つ、このロンドンでの体験で、驚きその後の人生に影響を与えたものがある、この時見た映画である。全く英語を話すことができないボクが字幕なしでも内容が理解できたのである。素晴らしいものは言葉の壁をいともたやすく飛び越えてしまうそう確信した瞬間である。鑑賞したのは「キリングフィールド」だったが。この体験の後からは映画を内容だけでなく全体の出来栄えでとらえることになっていった。

いきなり最初の町で物の見方を変えるような出来事があり。そしてボクはいよいよドーバ海峡を渡ることになるのだ。色々助けてくれたオーウェンさんとはここでお別れ、彼はさんざん探し回ってやっと素敵なアパートを見つけていた。素敵なアパートと美しい町、彼の奥さんもきっとこの町が気に入るだろう。

奇跡が起きた その①

ロンドン行きの飛行機の中で

大牟田の町に住んでいた事が遠い記憶になった若き日の「のら爺」バックパッカーとして海外に行くことを目指していた。一年間バイトに明け暮れバイクで全国制覇を試みていた時、浜名湖のユースホステルで何気なく手に取った本「地球の歩き方」。ページをめくっていくとヨーロッパへ自分が行くことは不可能ではないなと感じたのだった、「この本の情報をもとにバイトを頑張れはいける!」そう、ひらめいたのだ。若い人にはピンと来ないかもしれないが、当時は海外旅行などほんの一部のセレブな人々しか行かないというのが世間一般の感覚だったからだ。そしてついに手に入れたパキスタン航空の格安チケット!!

ついにこの瞬間ががきた。お金とパスポートを握りしめ(本当にお金とパスポートがあれば大体大丈、何とか行って帰ってこられると考えていたようである)友人に見送られ成田から飛び立つその離陸の瞬間、恐怖で体がフルフル震えた。日本を離れる前から想像だにつかないことに遭遇したせいでなおさら恐怖は大きくなっていた。(厳密に言えば空港内はもはや日本国内とは言い切れないが・・・。)空港利用税である!!ここの施設を使うだけでお金を払わなければならない!ショックであった、電車の駅なんて住み着いてる人もいるのに(当時はよくそんな人を見かけました)お手洗いを借りても料金はいらないはずだが、世界基準とはこんなのだろうか?この先が思いやられる。「この調子でいくと予定より大分早い帰国になるかも。」そんな予感もしてきた。

離陸してしばらくすると隣の席の外国人がボクに話しかけてきた。ウイスキーのミニチュア瓶をみせて「飲みますか?」。初めての海外しかも頼るものもない一人旅、それに出発前、皆から注意されたではないか’、見ず知らずの人に気安く物をもらったりするなと。「断るべきだ!」と一瞬は思ったがにこやかな彼の表情に、つい「ありがとう」の言葉が口をついて出た。そしてこの出会いがボクを救ってくれたのだった、英語はもちろん、出入国の際記入するカードの存在さえもしらないボク、右も左も分からず路頭に迷うはずだったボクに起きた最初の奇跡だったのです。

彼Mr’オーウェンはたしか海外青年協力隊の仕事で日本に来ていた、奥さんは日本人でアメリカ人の彼は日本語がとても上手。そしてなぜかこんな行きずりの日本人ボクにとても親切にしてくれた。飛行機はマニラ、バンコク、カラチ、もう一つはどこだっけ?最後にエジプトを経由しロンドンにつく。カラチでは6時間ものトランジット、だが、あそこでの朝日は今でも、魂に焼き付いているオレンジ色でとても、でっかい!!。この長い旅路、オーウェンさん、スティーブさんと関わりを持てたことで何とか乗り切り、入国審査までたどり着けた。不安そうにしていたボクにオーウェンさんは付き添ってまでくれたのだった。

そしてやっとロンドンにたどり着いたボクにオーウェンさんはこう言います。「少し勉強してから出発しなさい、私が留学している大学の寮にビジターとして滞在できるから」

本当にありがたい話でした、たまたま飛行機で隣になっただけの人が日本語を流暢に話し最初の目的地で宿泊先まで紹介してくれたのですから。これはまさしく奇跡というのでしょう。

Hello world!大牟田より

九州の大牟田市1965年当時は今からは想像もつかないほど活気にあふれた町であった、国鉄(現在のJR九州)と西鉄の特急がとまり、デパート、映画館、動物園などの娯楽施設はもちろん、公共設備も充実していたため福岡市はもちろん大阪や東京といった大都市にさえ引けを取らない町だったのだ。

そんな町の目抜き通りに「テーラエガシラ」という一軒の紳士服店があった。20世紀末ディオールやグッチの発表した黒くて細身で丈の短いスーツのモードにも引けを取らない作品を生み出す店であった。店の主人はお客のイメージを形にするのがとても上手く店は沢山の職人やお客でにぎわっていたのだ。この店のオーナー夫妻の次男坊としてうまれた男の子がこのブログの主役「のら爺」である。彼は60年代後半からのヒッピー文化を肌で感じながら育ち、身の回りはファッションに囲まれていたためだろうか?「大人になったら髪を伸ばしおしゃれに決めるぞ」と小学校入学前には決意したようである。

綺麗なもの好きに育った「のら爺」その後の人生も綺麗なものを追求することになっていくのであった。