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一難去ってまた一難

今年の夏は良く乗り切ったなと自分でも感心します。

一番暑い時に日陰のない場所での仕事でした、

空調服を来年は購入しようかな?と考えていますが。

 

そして、そろそろ秋の気配が漂いだしたらこの台風

これまでの経験値では対応できない様な事態でした。

そして昨日の地震、こちら関西の交通機関や電気もまだ完全ではないのに

対処されている方、本当に感謝いたします。

我々、植木屋も微力ながら復旧に走っています。

末文で恐縮ですが、被災された方の一日も早い回復を心よりお祈り申し上げます。

バルセロナ~ガウディーによせて~

そしてこの旅の目的の三つめガウディーの作品を見るためバルセロナにやってきた!なぜガウディーに興味を持ったか?サントリのテレビCMだ1982年の放送らしいが興味のある方はこちらでどうぞ

30年以上前のCMなのだがこうしてインターネットが出来たおかげで今でも見る事が出来る、当時は全く想像もつかないことだった。だからあと30年も生きたら一体世の中どんなに素晴らしくなっているのだろうとおもってしまう。そういえば!第二名神の工事も地上から見ているとすごっくて天空を橋とトンネルで駆け抜ける道路という感じで、しかも端の部分だけがニョキニョキと両サイドからのびてつながっていく!ボクが土木業に関わりだした頃には想像もできない様子だ。少し話が横道にそれたが、人生の旅こそ本当にミラクルの連続なんだな!最近つくづく思う。

ガウディーの作品や生涯についての説明は他の人に任せて、ボクは今、造園業をやっている人間の視点を交えながら少し紹介してみたい。

彼の作品で目を引くのはトカゲなど美しくない事はないが嫌いな人も多い動物をモチーフとして使っていること、それに日本では見たこともないようなモザイク、サグラダファミリアの正面マリア像が抱く幼子キリストは(本当かどうかは知りませんが)実物からかたどったという説もある。こういったものがなぜか安心感を与えてくれたのだ。そして製作期間も当時はあと数百年かかるなどと言われていたのだが、それでも作り続けるその価値観にも驚いた。基礎を築き一歩ずつ未来へ託していく、目先の価値観では図ることの出来ないものを造っているといったら良いのかな、だからこそバルセロナのランドマークにもなり民族のアイデンティティーになっていってるのかもしれない。日本にもそういう特別な公園はあるがやはりそういう建造物は歴史的な価値をもっているものだ。

一緒にバルセロナ観光をした人と最後に話していたのだが「サグラダファミリアは母親の子宮の様な感じがする」と当時のボクでも特別な場所で未来の歴史を生み出しているように感じたのだろう。

アルプスを越えると違う!

さあ!モネを堪能したから列車に乗って出発だ!とばかりにパリからマルセイユについた。ここらへんで大きな変化に気づいたのだが、物価が全然違うのだ、ユースホステルに泊まることは無くなってきた。安宿に格上げしたのだ。(格上げ?参考までに当時の安宿は19世紀初頭の映画に出てくるような籠が2重になっていて扉を自分で開けるスタイルのエレベーターに口に含むのははばかられるような茶色い水が蛇口から出てきていた。)ただ安い飯がうまくなってきたのは間違いない。だからもしこの旅が逆回りだったらお金を大事に使うという事には目覚めず、マルセイユを越えたらあっと言う間に所持金を使い果たし帰国の途についていたであろうと今でも思っている。本当に偶然なのだがこのコースで旅する事が出来て本当によかったのだ。

一路バルセロナを目指し電車に乗っていたのだか徐々に電車も変化していった、綺麗で速いスピードの電車が汚くて(失礼な言い方だったらごめんなさい)スピードが遅くなっていった、場合によっては同じ列車にのっているのに遅くなって行くのだ!そして駅のキヨスクにはサラミがぶら下がり。サラミが悪いのではなくて駅の売店にぶら下がっているのを見たのはヨーロッパ来てから初めてだという事です。最後に乗った列車は窓ガラスも一部なく、自分で走った方が早いのではないか?と思えるようなスピードでバルセロナに到着した。なぜだ?

バルセロナでは昼になると町から人が消えていくのだ、オカルトではなくシエスタである。暑いので働くより休んでおこうという発想からはじまったのだろう、昼食後に昼寝をする習慣の箏をシエスタという。我々働き者の日本人から見ると衝撃である。僕も決して働き者ではないが明るい町から人が消えていなくなり、夕方になると「どこからこんなに!」と叫びたくなるような人込みになるのだ。そしてシエスタの時間帯は大きな物音などは立ててはいけないというルールもあるそうだ。

ところ変われば色々な風習があるものだが、列車のスピードやシエスタそれに駅の売店のサラミなどは、これまでの国境越えでは見られなかった大きな変化だと感じながら今回の旅の三つ目の目的を果たすべく、僕はバルセロナの町に繰り出すのだった。

 

モネの面影をさがして

クロード・モネがルーアン大聖堂の連作を描いているのを知ったのはたしか中学生の頃だっただろうか?その時何か得体のしれないすごさを感じたのだろうか、同じ建物の光の加減を追い求め30点もの作品を書き綴った人物に・・・。この時の旅のもう一つの目的である。フランス、パリへ!

ボクを含め詳しくない人へ少し解説を(笑)。クロード・モネ(1840-1926)とは印象派を代表するフランスの画家である。印象派とは乱暴な解説をするとそれまでフランスの絵画の世界を支配していた権威(正確なデッサンと陰影による肉付法を重要視し絵画のジャンルによって価値の優劣を付けていた歴史画や神話画が神聖とされ風景画や静物画は低俗と位置付けられた、とてもアカデミックな世界で貴族階級に好まれた。当時ならドミニク・アングルの絵が分かりやすいだろう)に対抗するようにドラクロワ、ミレー、クールベといった画家たちから始まった豊かな色彩表現と市民階級の人々が好む風景画などを書き始めた事から始まった。

フランスはとても緊張する町だった、そして東京など、大都会にいるといつも感じるのだが’’すごく寂しい’’。地下鉄に乗ればチケットのおつりはごまかされる(抗議しても取り合ってもらえないのだ、「フランス語も喋れないんだから仕方ないだろ!!さっさとあっちへ行け」とでも言いたげな相手に追い払われ。ルーブル美術館のクロークでは担当者がボクの荷物を汚染物のようにつまみあげ、(確かに汚い姿だったが・・・。)エッフェル塔は乳白色の茶色で印象が少し違ったかな。ベルサイユ宮殿はお金がないので外側だけ見た。

もちろん嫌な事ばかりではなかった。ビストロに行ったが女将さん。年配の、少しおばあちゃんで暖かい人、ボクが片言のフランス語で注文すると、とても気持ちよく対応してくれたし料理も本当に美味しかった。現地で食べたフランスパンは凄いこれまで日本で食べていたのはいったい何だったんだろう?そう表現するしかないカリカリ?サクサク?どれも、しっくりこない。とにかくフランスに行ったらフランスパンは絶対食べるべき!モンマルトルの丘は観光客相手の画家が沢山、日本人画家もいて、とても商売繁盛していたようだ。海外のこんなジャンルでも成功する人っているものなんだ!セーヌ川のほとりは地球上で最も洗練された場所の一つと今でも思っている。「ポンヌフの恋人」(1991年公開)のような伝説の映画が出来上がるのは当然だ。

最後になってしまったがモネの連作はもちろん堪能した。30作品は今はバラバラになってしまって一同に会することはないがオルセー美術館に行けばかなりの数を見ることが出来る。今でもボクの心をつかんで離さない光と空間の関係性、少しは仕事や人生に生かすことができているのかな?

追伸、日本にもルーアン大聖堂の連作が一点あります。箱根町のポーラ美術館です。