本当にあった奇蹟

ヨーロッパへの旅

ロンドン行きの飛行機の中で

大牟田の町に住んでいた事が遠い記憶になった頃ボクはバックパッカーとして海外に行くことを目指していた。

きっかけは、1年間バイトに明け暮れ手にしたお金でバイク全国縦断を試みていた時、浜名湖のユースホステルで何気なく手に取った本「地球の歩き方」である。ページをめくっているとヨーロッパへ自分が行くことは不可能ではないなと感じたのだ。

「この本の情報をもとにバイトを頑張れはいける!」とひらめいたのだ。今の若い人にはピンと来ないかもしれないが、当時は海外旅行など一部のお金持ちしか行けないというのが世間一般の感覚だったからだ。なにせ1ドル250円の時代だ

そしてついに手に入れたパキスタン航空の格安チケット!!

ついにこの瞬間ががきた。お金とパスポートを握りしめ(本当にお金とパスポートがあれば大体大丈、何とか行って帰ってこられると考えていた)

しかし友人達に見送られ成田から飛び立つ瞬間、ボクの体は恐怖でブルブル震えだした。日本を離れる前から想像だにつかないことに遭遇したため、なおさら恐怖は大きくなっていた。(厳密に言えば空港内はもはや日本国内とは言い切れないが・・・。)

空港利用税である!!ここの施設を使うだけでお金を払わなければならない!ショックであった、電車の駅なんて住み着いてる人もいるのに(当時はよくそんな人を見かけました)お手洗いを借りても料金がいるのだろうか?世界基準とはこれか?自分の無知と予定外の支出、「この調子でいくと予定より早い帰国になるかも」そんな事を考えていたような気がする。

離陸してしばらくすると隣の席の外国人がボクに話しかけてきた。ウイスキーのミニチュア瓶をみせて「飲みますか?」。

初めての海外、頼るものもない1人旅、それに出発前、皆から注意された、見ず知らずの人に気安く物をもらったりするなと。「断るべきだ!」と一瞬は思ったがにこやかな彼の表情に、つい「ありがとう」の言葉が口をついて出た。そしてこの出会いがボクを救ってくれたのだった、英語はもちろん、出入国の際記入するカードの存在さえもしらないボク、右も左も分からず路頭に迷うはずだったボクに起きた最初の奇跡だったのです。

彼Mr’オーウェンはたしか海外青年協力隊の仕事で日本に来ていた、奥さんは日本人。アメリカ人の彼は日本語がとても上手。そしてなぜかこんな行きずりのボクにとても親切にしてくれた。飛行機はマニラ、バンコク、カラチ、もう一つはどこだっけ?最後にエジプトを経由しロンドンにつく。カラチでは6時間ものトランジット、だが、あそこでの朝日は今でも目に浮かぶ、まるで魂に焼き付いたかのようだ。明るいオレンジ色でとても太陽がでっかい!!。

この長い旅路、オーウェンさん、スティーブさんと関わりを持てたことで何とか乗り切りイギリスの入国審査までたどり着けた。不安そうにしていたボクにオーウェンさんは付き添ってまでくれたのだった。

そして更にオーウェンさんはこう言います「少し勉強してから出発しなさい、私が留学している大学の寮にビジターとして滞在できるから」

本当にありがたい話でした、たまたま飛行機で隣になっただけの人が日本語を流暢に話し最初の目的地で宿泊先まで紹介してくれたのですから。これはまさしく奇跡というのでしょう。

ロンドンでの感動~そして映画の見方が変わった~

空港からロンドンの町までは地下鉄での移動。正面に座っていたカップルがキラキラしすぎてまぶしかった、中学生くらいの二人はなぜか映画「メロディー」(邦題小さな恋のメロディー)の主役二人にそっくり、お互いの耳元で何かささやき合う幸せそうな姿は天使か妖精だ。

ロンドンでの初日。スティーブさんが知っていた安いホテルに行ったが、残念ながら満室であった、考えることは皆一緒、遅くに着いた僕らは出遅れたのだ。急きょ歩いてその近辺の空いているホテルを探すことになったのだが、幸運にも歩ける範囲でその日の宿を見つけることができた。(ここの朝食も美味しかったな~。)翌日からはずうずうしくも夏休みで一般人も泊まれることになっていたオーウェンさんが留学する大学の学生寮に移った。

とにかく学生寮での朝食はおいしかった。「イギリスはおいしい」というエッセイを読んだことがあるが、全くその通りである「フィッシュ&ポテト」はもちろん、焼いたたジャガイモにチキンカレーをかけたのも美味しかった!お金のないボクでも十分満足出来る食事ばかりだった。現代ならSNSに写真を投稿しまくっていただろう。

ロンドンは本当に綺麗な街だ。ほとんどの建物は古風でカッチリとしたつくりであった、そのため町全体の調和も保たれているのである、そして、いたるところに公園があるのだ。芝生の美しい様々な公園の中でもボクが驚いたのはパブリックでありながらクローズされている公園であった。映画「ノッティンヒルの恋人」に登場した公園である。ジュリア・ロバーツとヒュー・グラントがこのプライベートガーデンに忍び込むシーンがある。こういった公園はその地域の住民が共同で管理している公園で、利用できるのは鍵を持った住人だけ部外者は入れないのだ。その考え方に驚きながらもそういう空間が日本にもあれば良いなと漠然とではあるが、このとき感じたのだった。

このロンドンでも奇跡の体験があった、全く英語を話すことのできないボクが現地で見た映画に感動したのだ、もちろん内容もちゃんと理解出来た。このことは衝撃的な経験だったし、その後の人生にとても大きな影響を与えていると思う。鑑賞したのはベトナム戦争を扱った「キリングフィールド」だ。数々の賞を受賞した有名な映画なので見ていない人はぜひ見ておくべきだと思うそして一緒に見ておいてほしいのが同じくベトナム戦争を扱った「グッドモーニングベトナム」この2つの映画を見比べるのはきっと興味深い経験になるだろう。映画は細かな部分だけでなく全体としてとらえ評価するようになりさらに、自分に起きる物事も細かなパーツでなく全体的にとらえるようになっていった。

いきなり最初の町で物の見方を変えるような出来事があり。そしてボクはいよいよドーバ海峡を渡ることになるのだ。色々助けてくれたオーウェンさんとはここでお別れ、彼はさんざん探し回ってやっと素敵なアパートを見つけていた。素敵なアパートと美しい町、彼の奥さんもきっとこの町が気に入るだろう。

ロンドン番外編

初めての海外旅行、 ロンドンに滞在し1週間、次の町に行くにしても少し練習をしてみないと不安だった。そのほかにも心配事は尽きなかったが。物価は高くタバコなんて当時の日本人には冗談みたいな値段、食料品も高くて外食なんてとても出来ない。何といっても1ドル240円の時代だから。そしてロンドン到着直後にあの伝説の「プラザ合意」があり1ドル240円はさらに厳しいものになったのだ。当初の見通しが甘かったのだろうか、このままでは3か月の予定が大埴に短縮しそうな予感がしていた。それでも旅を続けられるかどうかはお金よりボク自身の問題が少しだけ大きかった。それで予行演習をかねて、夜行バスでリバプールを目指した。

夜行バスから見える景色はまるで大きなゴルフ場のようだった。なだらかな丘陵地帯がつづき木はほとんどない(昔のイギリス人が森の木々を大体切り倒してしまったという話は本当だったようだ。)日本ではすぐに鬱蒼とした森や幾重にも重なる山々を見るのは当たり前のことなんだが、「所変わればこんなにも違うのか」と関心する。

リバプールの町に着くとどっしりしたつくりの教会が目を引いた。当時はキリスト教についてあまり知らなかったがら町のど真ん中いて絶対的な存在感を放つ教会にはとてもビックリしたのを覚えている。

ビートルズ博物館に行くなどごく地味な観光になったが最後までシツコク現地の不良に追い回された。(多分)中学生くらい^の3人組だったかな、そんなに情熱があれば貧乏そうなバックパッカーを追い回さなくても、もっと楽しいことが沢山出来そうなもんだが、彼らは現地の社会で生きていくにはあまりに不利な立場だったという事なのだろうか?そして自分がとても情けなく思えた。こんな子供になめられ、これではまるで的を付けられ放たれたチキンのようではないか。

そうだ!しつこいようだが本場のフィッシ&チップスは本当に絶品であった。新聞紙を円錐状に丸めた所に揚げたての魚のフライとポテトフライをいれて塩とビネガーをかけただけのシンプルなものだかとても美味!!

そして日が暮れるころロンドン行きの夜行バスにのりリバプールを後にした、「これならロンドンを離れ(日本に戻らずに)旅を続けられるだろう。」と少し安堵感を抱きながら、なだらかな丘陵地帯を眺めていた。

いざドーバー海峡をこえて

イギリスとヨーロッパ現在はトンネルでつながっているが、30年前はドーバー海峡を越えるのにフェリーを使った。

オランダに到着してすぐユースホステルを探すことにした、一人だったし日本人にも遭遇していない。とりあえずは寝る場所を確保をしておこうと考えたのだ。ガイドブックにある一番近いユースホステルに歩いていくことにしたが、地図で見ても遠い場所のようだった、案の定かなりの距離である、その上、自分の歩いている道といえば日本では自動車専用道路といった雰囲気である。もしやハイウェーを歩いているのでは?と不安になりながら目的地を目指していたのだが、道の脇の草原にはイギリス同様ウサギが走り回っている。さすがヨーロッパ「ピーターラビット」がそこら中にいるのか!

到着したユースホステルは合宿に使われそうな雰囲気の宿であった、スーパーにちょっと行くという事が出来なかったが、予約しておけば食事は出して貰えるとの事。早速お願いした。出てきたのは’’ラザニア’’名前は聞いた事があったのだが食べるのは初めてだったあとはスープの自動販売機が置いてあった。食事はそれなりにという感じだったが、驚いたのはトイレの便座が無いことだった。この時はまだ気づかなかったが、この旅の間、便座のないトイレにはさんざん遭遇することとなった、そのうちトイレには便座があってほしいと願うようになるほどに。

ブリュッセルはガヤガヤした都会という印象が強かった。小便小僧を見たり(とても質素なもので驚いた)ミュージアムに行くなどしたが、公営のミュージアムは大体どの国でも入場料は無料か100円くらいであった。日本ではデパートでのちょっとした展覧会でも数百円かかることを思うとこういったものに対する考え方が全然違うのだろう。そしてブルージュ。説明するまでもないが本当に美しい古都だ、そして「レースがすごい!」と男でも思った、こういったものが好きな女性ならばぜひ足を運ぶべきだろう。後で知ったが、レースというのは宝石の代わりだったらしい。徳川吉宗のような王様が贅沢禁止令のようなものを発令すると貴族たちは宝石はしまっておいてレースを身にまっとったようだ。

最後に「フランダースの犬」で主人公のネロが見たがっていたルーベンスの絵を見て終わりベルギーはフィニッシュとなった。

西ドイツへ~人間って一人では生きられない~

西ドイツへ!(当時ドイツは西と東に分断されていました。ここでドイツと書いてあるのは当時西ドイツと呼ばれていた地域のことを指します。)ドイツ最初のユースホステルで会った日本人と話して分かったのはあと3日早くここへ来ていたら、日本人初のプロサッカー選手(一説にはさだまさし氏の実弟のほうが先だとする説もあるらしいですが)奥寺康彦さんに食事をご馳走してもらえたという事であった。正直ものすごく残念だった、一週間や10日ならまだしも3日なんて…。

気を取り直して。観光とスーパーの「チーズ、パン、ワイン」。何よりも釣銭をごまかされる事への警戒をしなくて良かった事が印象的だった、お客とお店という対等の立場での関係が心地よく、とても安心出来た。というのが当時のドイツの思い出だ。物価が高く外食なんてとても無理で毎日上記の3点セットを食べていた、若いからできたのだろう。それ以外ではマクドナルドでビールが飲めるのも驚いた。あとドトールコーヒーによく似たコーヒーショップも利用した。(後で知ったが、ドトールの社長はドイツで見たコーヒーショップをヒントに創業したという事だ)

そんな時に何人かの日本人と一緒に東ベルリンに行った。その後日本に帰ってからも何度かお世話になることとなった「本保さん」デザイナーをしてらして、当時はまだ広告の仕事を始めていなかったものだから’’あ~そんな仕事があるんだ~’’くらいの印象だった。Y峯さんご夫妻、O津さん合計4人で東ベルリンへあちらこちらを見て回ることもないので壁の近ではなくテレビ塔のそばのレストランでへ厚みが薄くあまり美味しくないステーキを食べた。

若い人はよく分からないかも知れないので少し説明を。当時ベルリンという町は東ドイツと言う国にあり、西ドイツに属する西ベルリンと、東ドイツに属する東ベルリンに分かれていました。西ベルリンをぐるりと囲む形でコンクリート壁が物理的に町を分断していたのです。文書にするとなんだかドラマチックですが壁の崩壊もしかりである日突然「今から即刻壁を開放し自由に往来出来る」という趣旨の発表がされるのです。

この大都市への観光ののち再び一人で行動するのだが、一週間たったころから精神に変調が現れ始めた。自分で気づいたのだが。若いころは一人でなんでも出来る、生きていけると思いがちだがが一週間ほど人としゃべらないだけで心は苦しみだしたのだ独りぼっちがこんなにも不安なものだとは、この旅をしなければ全く気付けなかっただろう。

アルプスを越えて

時は1985年。9月末になるとおかしな噂が耳に入ってきた。「阪神(タイガース)強いんだって」それからはボクは、事あるごとに日本大使館やJALのオフィスなど日本国内の新聞が読める場所に出没していた。海外に長期間旅する野球ファン(特に阪神タイガースのファン)にとっては気になって仕方のない事情であった。そうあのカーネルサンダース事件の発端となった阪神タイガース21年ぶりのセントラルリーグ優勝の事である。※カーネルサンダース事件とは優勝に狂喜したファンがケンタッキー・フライド・チキン道頓堀店(今はない)のカーネルサンダース像を道頓堀に投げ込んだ事件。今のようにインターネットでなんでも出来る時代ではなかったから、ちょっと日本の事情を知ろうとすると、案外あたまを使う必要があり、手間もかかったのである。素晴らしきかなテクノロジー!AIバンザイ

この辺りは当時のボクには、ものすごい物価高。夜行電車で宿代を節約し、昼間はお金のかからない美術館、博物館めぐりをして過ごした。博物館には鎧、甲冑ばかりがあったような気がする。美術館には豪華な食品を描いた静物画(※朝食画、晩餐画と呼ばれる静物画の一ジャンルである)だ。いずれも富と権力の象徴なのだろう何百年たった今も、ものすごい主張をしているのだからすごい!そしてこの辺りの国境越えもドイツ、ベルギー間とはずいぶん違っていた、とても和やかだった。ドイツ国境警備の人はドーベルマンを連れておかしなもの(禁止薬物)を持ち込んでいないかとピリピリと調べていたのだ。

そんな中ハンブルグでは、屋台のうまいニシンの酢漬けに舌鼓を打ち。ザルツブルクではサウンドオブミュージックのビデオを毎晩見て(ユースホステルで毎晩上映されていた、ちょっと違う?)芸術の都ウィーンを経て、今回の目的地の一つスイスを目指した。あの雄大な自然、ハイジが暮らす世界をぜひ見てみたい!

サンモリッツの湖と霧の幻想的な風景を後に、マイエンフェルトへ。駅には日本語の案内もあり、ハイジの村へは簡単にたどり着けた。デルフリ村は実在しませんがアニメに出てくるハイジの家など、そっくりの建物などが沢山、観光用に作られたのでしょうが矢張りその前で写真をパチリと撮ってしまった。

マイエンフェルトの自然は本当にアニメ「ハイジ」の自然そのままで巨大で重なり合う木々、あの遠く遠く望む山々につづく真っ青な空、うそ偽りのないそのままの美しさに言葉も無くただ見つめるだけでした。

30年前ならではの楽しみ

30年前の貧乏旅行ならではのささやかな楽しみを一つ。国境を出るときの楽しみなのだが、当時はユーロなんていう通貨は無くヨーロッパ諸国はそれぞれの国の通貨を使っていた。もちろんEUさえ無かった時代だから(前身のECはあったよな?)国を出るときはその国の通貨を何とかしなければならなかった。選択肢は二つ。元々持って行っていたアメリカドル($)に戻す(当時は最強通貨だったのだ)又は、使ってしまう。大体は少ししか残っていないので後者の選択になる。

スイス出国までは特に切り詰めた生活をしていた。最初に持っているお金、全てをUS$に変えてしまったので為替レートの大きな変動に対応できなかったのだ。当時は分散することでお金のリスクは回避出来るなど到底理解していなかったので出国前の計画を到着早々、変更せざる負えなくなった(※: https://noragarden.work/2018/05/04/ロンドン~番外編~/ ‎参照)。その後物価が高い地域を回っている間は本当に節約生活であった。日々の食べ物はパン、ワイン、チーズが基本で、荷物にいつも1セット入れていた。外食はおろか暖かい食べ物さえほとんど口にしていなかったがパンやチーズはそれぞれのお国柄があってバリエーションに富んでいたし、ワインやビールも安くて美味しいものが沢山飲めたので特別苦しいとは思っていなかった。ドイツの酸っぱくて重たいパンや、ものすっご~いくせの強いチーズを買ってしまったことも、それはそれで旅の思い出であった。そして出国の時、残ったその国のお金が両替するほどでもないのなら使ってしまおうと思いレストランに入る事になるのだ。今でも覚えているのはオーストリアを出国するとき食べた食事だ。何の変哲もないミートソースのパスタ、卵の黄身が浮いているコンソメスープ、サラダ(自分で塩、酢、オリーブオイルをかけて食べるとてもシンプルなものだが、自分で味を調整して食べるからだろう、初めての美味しさの感覚だった)たったこれだけなのだが、30年以上たった今でさえ、とても鮮明に覚えている。人間贅沢していない方が幸せを余分に感じるという事だろうか?さらに残った小銭はお土産にみんなにあげたっけ、結構喜ばれたよな。お金って不思議な力を持っているんだろうね、使うこともないのに貰ってこんなに嬉しいなんて。

時は過ぎ世の中の通貨事情は当時からは想像だにつかないほど変わったUS$絶対でもなくなり、その後釜と目されたユーロもあまり元気がなく。変わって円や元といった東洋の通貨が台頭してきている。それでもお金そのものの性質は何も変わっていないようにも思えるが、さて仮想通貨やAIなどが当たり前になってもこれは変わらないのだろうか?50年生きた知識を持ってなんとか見極めていきたいものである。

モネの面影をさがして

クロード・モネがルーアン大聖堂の連作を描いているのを知ったのはたしか中学生の頃だっただろうか?その時何か得体のしれないすごさを感じたのだろうか、同じ建物の光の加減を追い求め30点もの作品を書き綴った人物に・・・。この時の旅のもう一つの目的である。フランス、パリへ!

ボクを含め詳しくない人へ少し解説を(笑)。クロード・モネ(1840-1926)とは印象派を代表するフランスの画家である。印象派とは乱暴な解説をするとそれまでフランスの絵画の世界を支配していた権威(正確なデッサンと陰影による肉付法を重要視し絵画のジャンルによって価値の優劣を付けていた歴史画や神話画が神聖とされ風景画や静物画は低俗と位置付けられた、とてもアカデミックな世界で貴族階級に好まれた。当時ならドミニク・アングルの絵が分かりやすいだろう)に対抗するようにドラクロワ、ミレー、クールベといった画家たちから始まった豊かな色彩表現と市民階級の人々が好む風景画などを書き始めた事から始まった。

フランスはとても緊張する町だった、そして東京など、大都会にいるといつも感じるのだが’’すごく寂しい’’。地下鉄に乗ればチケットのおつりはごまかされる(抗議しても取り合ってもらえないのだ、「フランス語も喋れないんだから仕方ないだろ!!さっさとあっちへ行け」とでも言いたげな相手に追い払われ。ルーブル美術館のクロークでは担当者がボクの荷物を汚染物のようにつまみあげ、(確かに汚い姿だったが・・・。)エッフェル塔は乳白色の茶色で印象が少し違ったかな。ベルサイユ宮殿はお金がないので外側だけ見た。

もちろん嫌な事ばかりではなかった。ビストロに行ったが女将さん。年配の、少しおばあちゃんで暖かい人、ボクが片言のフランス語で注文すると、とても気持ちよく対応してくれたし料理も本当に美味しかった。現地で食べたフランスパンは凄いこれまで日本で食べていたのはいったい何だったんだろう?そう表現するしかないカリカリ?サクサク?どれも、しっくりこない。とにかくフランスに行ったらフランスパンは絶対食べるべき!モンマルトルの丘は観光客相手の画家が沢山、日本人画家もいて、とても商売繁盛していたようだ。海外のこんなジャンルでも成功する人っているものなんだ!セーヌ川のほとりは地球上で最も洗練された場所の一つと今でも思っている。「ポンヌフの恋人」(1991年公開)のような伝説の映画が出来上がるのは当然だ。

最後になってしまったがモネの連作はもちろん堪能した。30作品は今はバラバラになってしまって一同に会することはないがオルセー美術館に行けばかなりの数を見ることが出来る。今でもボクの心をつかんで離さない光と空間の関係性、少しは仕事や人生に生かすことができているのかな?

追伸、日本にもルーアン大聖堂の連作が一点あります。箱根町のポーラ美術館です。

アルプスを越えると違う!

さあ!モネを堪能したから列車に乗って出発だ!とばかりにパリからマルセイユについた。ここらへんで大きな変化に気づいたのだが、物価が全然違うのだ、ユースホステルに泊まることは無くなってきた。安宿に格上げしたのだ。(格上げ?参考までに当時の安宿は19世紀初頭の映画に出てくるような籠が2重になっていて扉を自分で開けるスタイルのエレベーターに口に含むのははばかられるような茶色い水が蛇口から出てきていた。)ただ安い飯がうまくなってきたのは間違いない。だからもしこの旅が逆回りだったらお金を大事に使うという事には目覚めず、マルセイユを越えたらあっと言う間に所持金を使い果たし帰国の途についていたであろうと今でも思っている。本当に偶然なのだがこのコースで旅する事が出来て本当によかったのだ。

一路バルセロナを目指し電車に乗っていたのだか徐々に電車も変化していった、綺麗で速いスピードの電車が汚くて(失礼な言い方だったらごめんなさい)スピードが遅くなっていった、場合によっては同じ列車にのっているのに遅くなって行くのだ!そして駅のキヨスクにはサラミがぶら下がり。サラミが悪いのではなくて駅の売店にぶら下がっているのを見たのはヨーロッパ来てから初めてだという事です。最後に乗った列車は窓ガラスも一部なく、自分で走った方が早いのではないか?と思えるようなスピードでバルセロナに到着した。なぜだ?

バルセロナでは昼になると町から人が消えていくのだ、オカルトではなくシエスタである。暑いので働くより休んでおこうという発想からはじまったのだろう、昼食後に昼寝をする習慣の箏をシエスタという。我々働き者の日本人から見ると衝撃である。僕も決して働き者ではないが明るい町から人が消えていなくなり、夕方になると「どこからこんなに!」と叫びたくなるような人込みになるのだ。そしてシエスタの時間帯は大きな物音などは立ててはいけないというルールもあるそうだ。

ところ変われば色々な風習があるものだが、列車のスピードやシエスタそれに駅の売店のサラミなどは、これまでの国境越えでは見られなかった大きな変化だと感じながら今回の旅の三つ目の目的を果たすべく、僕はバルセロナの町に繰り出すのだった。

バルセロナ~ガウディーによせて~

そしてこの旅の目的の三つめガウディーの作品を見るためバルセロナにやってきた!なぜガウディーに興味を持ったか?サントリのテレビCMだ1982年の放送らしいが興味のある方はこちらでどうぞ

You TubeサントリーCMガウディー編へ

30年以上前のCMなのだがこうしてインターネットが出来たおかげで今でも見る事が出来る、当時は全く想像もつかないことだった。だからあと30年も生きたら一体世の中どんなに素晴らしくなっているのだろうとおもってしまう。そういえば!第二名神の工事も地上から見ているとすごっくて天空を橋とトンネルで駆け抜ける道路という感じで、しかも端の部分だけがニョキニョキと両サイドからのびてつながっていく!ボクが土木業に関わりだした頃には想像もできない様子だ。少し話が横道にそれたが、人生の旅こそ本当にミラクルの連続なんだな!最近つくづく思う。

ガウディーの作品や生涯についての説明は他の人に任せて、ボクは今、造園業をやっている人間の視点を交えながら少し紹介してみたい。

彼の作品で目を引くのはトカゲなど美しくない事はないが嫌いな人も多い動物をモチーフとして使っていること、それに日本では見たこともないようなモザイク、サグラダファミリアの正面マリア像が抱く幼子キリストは(本当かどうかは知りませんが)実物からかたどったという説もある。こういったものがなぜか安心感を与えてくれたのだ。そして製作期間も当時はあと数百年かかるなどと言われていたのだが、それでも作り続けるその価値観にも驚いた。基礎を築き一歩ずつ未来へ託していく、目先の価値観では図ることの出来ないものを造っているといったら良いのかな、だからこそバルセロナのランドマークにもなり民族のアイデンティティーになっていってるのかもしれない。日本にもそういう特別な公園はあるがやはりそういう建造物は歴史的な価値をもっているものだ。

一緒にバルセロナ観光をした人と最後に話していたのだが「サグラダファミリアは母親の子宮の様な感じがする」と当時のボクでも特別な場所で未来の歴史を生み出しているように感じたのだろう。

ポルトガルへの道すがら

特別、見たかったガウディーを満喫した後

スペインを後に一路ポルトガル行きの列車に乗った僕たちを

向かい受けた(というよりは僕らが乗っている8人用コンパーチメント

に彼女たちがやってきた)旅回りをしているダンサーチームのメンバーたち

60歳くらいの人ママ(リーダー)を筆頭に50代、30代(一番若い子は

10代だろうとても魅力的で可愛らしかった。)総勢6人の女性が僕たちの

旅の道ずれとなったのだ。

最初は少し緊張したがこちらから挨拶すると、とても人懐っこい彼女たちは

すぐに打ち解けて(?)楽しいパーティーとなった。

似顔絵を描いてあげたりボクのウォークマンを聞かせてあげたり

あんまり楽しそうだったので国境警備のポリス2人もいつの間にか加わり

列車はポルトガルに向かっていったのだった

多分彼女たちは今でいうロマの人達だろう。当時はジプシーと言ったいたが

現在は差別的な表現という事でロマというらしい、(ジプシーキングスという

バンドもあるしなー、そう言えばローリングストーンズなんかも

同じ意味では?とちょっと思ったりもする)こうやって楽しく仕事品がら

各地でダンスを踊る生活もあるんだな。

ウォークマンと本

今はスマホとかタブレットなど持ち歩ける娯楽が沢山あるけれど

あの頃、普通の人の旅のお供は本かウォークマンぐらいだった

カセットテープ(若い人は見たことないというのも珍しくないだろうが)

にはサザンオールスターズを入れていた。だから今でも

サザンオールスターズの曲を聴くと、結構当時の事を思い出すのだ

今は当時の順路なども写真を見ながら思い出すのが精いっぱいなのに

音楽と記憶が結びつくとこんなに強固な思い出になるという事だな。

本は「竜馬がゆく」司馬遼太郎著の最終巻だけを持って行って

何度も何度も読み返していた。そしてある考えが頭をよぎったのだ

東京から大阪まで歩いたらどうだろう、

どんな感じがするんだろう

竜馬は京都、江戸を何度も往復している

当時はこれが普通だったのか。

やっぱり自分もこれをやってみよう!!

そう、ボクの中ではヨーロッパで冒険中に

すでに次の冒険プランが出来上がりつつあったのだ。

ポルトガルの風景

列車から見た衝撃の光景

列車から見たポルトガルの光景はボクには

映画「ウエスタン」の世界だった

ヨーロッパと一言で言ってもやはり広いなと思った

民族性も気候風土も全く違う

こんな土地があるからセルジオ・レオーネ監督も

ウエスタンの様な映画が撮れたのだろう

余談だがフランスでもつい100年ほど前までは

パリから30㎞も離れると言葉が通じなかったとか

日本でも明治の初め頃は皆、出身地の言葉で喋っていたので

会話が成立しなかったため標準語が制定されたらしい

という事は日本の方が少し進んでいたという事だな

列車は田舎町の駅に止まっていた

駅の売店をふと見ると

駅の売店なのにサラミが大量にぶら下がっていた

あれをナイフで切りながら食べるのだろう

それにしてもあんなにたくさん売れるのだろうか?

心配になるほどの数が店先に吊り下げられている光景を今でも思いだす

そして笑ってしまうのだった。

ポルトガルまで来るとヨーロッパという感じが少し薄らいでくる。

ロカ岬

とても美味しかったが料理の名前は忘れてしまった

串に刺した肉を焼いたもので

知り合った日本人の人にご馳走になった

ロカ岬に行って

「ユーラシア大陸の東の島から西の端までやってきたぞ~」

と納得していたのだ

海を隔ててあっちはもうアフリカなのだが

以外に涼しかった記憶がある。

岬で(病気だったのだろう)犬がよだれを垂らしながら(狂犬病か?)ヨロヨロと

歩いていたのが印象に残っている。

あんまり強烈だったのか今でもテレビでロカ岬を見るとこの話をしてしまう。

大陸の東から西なんてこの犬には全く知らない世界の話

同じ場所と時間に存在しながら

種が違うとこんなもんなんだな

これなら地球人と地球外生命体の方がまだ近い存在だな

以外に観光をしていなかったポルトガルだが

印象度で語れば結構その存在感はすごかった

再びフランスへ

あまり大したことをしなかったポルトガルを後に

再びフランス、リヨンに戻った

ここでフランスを出るときから一緒に行動していた

Mさんとはお別れしたのだった

ポルトガルから出発

ヨーロッパも南の国々では明らかに(イギリスやオーストリア等とは)

物価が違うためボクのお財布にも少し余裕が出てきた

そこでもう少し冒険を続けることにした

ポルトガルから一度アテネに戻り

そこから列車にのって

地中海を渡りトルコを目指した

ポルトガル出発の前日

牡蠣の缶詰めを食べていたぼくは

その後、体調不良に見舞われる

牡蠣が原因とは思えないが

兎に角何もすることが出来ず

一日駅のベンチで寝る事になった

日本から持参した薬が効いたのか

一日で何とか持ち直しフェリーで

一路アテネに向かう

フェリーの乗車券は何と

甲板にしか滞在できないチケットがあった!

前日の体調不良の事もあり

追加料金を払って船内のソファーには座れる

チケットにした

船内にはマティスの「ダンス」があった

勿論ポスターだがとても印象に残っている

当時はマティスさえ知らないボクだったが

本物とはこういう無知な人間にでさえ

多くの物語を語りかけてくる

アテネについて

ユースホステルで一泊した

駅にはいってみたものの

何か言葉にできない恐怖を感じて

分かりやすく言えば

ヨーロッパとはまた違う世界に渡ることに

怖気づいてしまったのだろう

翌朝起きて持ち歩いているパンで朝食を済まそうと

カバンをあけると!!

ネズミがボクのパンをシェアしていた

パンの耳全部と

柔らかいところも半分残してくれてはいたが

食べる気にはならず(当たり前)・・・

そしてボクは新たな世界へ旅立った

トルコへ
駅で変な東洋人に出会った
アーミーキャップをかぶり
痩せて目がギョロギョロして
やたらひげが濃い
ちょっと警戒しつつ話してみると
日本人だった(沖縄の人だった)
目的地は同じだったので同行することになったが
この道連れ、この先30年以上続くとは
当時まだ全くもって想像もしていなかった
(これはまた別のお話)
イスタンブールへは列車で到着
ギリシアとトルコ
なるほど未だ確執のある国同士
というのも納得の距離だった
世界三大料理と呼ばれるだけあって
とても美味しいご飯にありついた
さてカッパドキアに行こう
バスで2日の工程だ
ターミナルには行ってビックリ
野球のスタジアムのような広い場所に
人、人、人、そして
あらゆる方面行きのバス
とても目的のバスにたどり着けそうもない
と思った瞬間
子供がやって来て案内してくれた
バス会社に雇われているようだ
バスに乗ること丸二日
テレビで見た
コロンをバスの運転手が乗客に配るシーンが
現実のものとなって目の前で展開された
乾燥しているのでそんなに臭わないのだが
(ボクはそう信じている)
カッパドキアの近くの街でバスを降り
当時はそこからヒッチハイクだ
この工程は何似に例えたら良いだろうか?
スターウォーズ・エピソード4で
C3POとR2-D2が砂漠の星を
とぼとぼ歩いていた感じに似ている
とても地球上の光景とは思えない様な景色
遠く地平線の向こうまで続く道から
蜃気楼のように現れた影
(ロバとおばあさんだったが)
少しづつ近づいて来た
結局乗せてもらっは
トウモロコシを積んだトラックで
スピードメータがカメとウサギだった
(冗談ではなく本当に数字で無く絵が描いてあった)
そうだなやっぱり
猿の惑星みたいだな
ちょっと似ているけど
なんだか違う星に来たような違和感
カッパドキアには今でも人が住んでいる所もあり
ぽつぽつと明かりがともっている洞窟もあった
不思議な異世界だった
旅のエンディング
再びアテネに帰った僕たち
ボクはローマ観光をしてから帰国する
彼「ジュンジ」はアフリカへ向かうらしい
その風貌にその帽子
アフリカに行ったらきっと
レッドアーミー(日本赤軍とういテロリスト集団)
に間違われるから危険だと告げると
彼も納得して帽子をボクに預けた
この出来事がこれから30年以上の
道連れに関係するのだ
とりあえず「ジュンジ」とはここで一旦別れ
ボクはローマ観光に
そこで出会ったIさんが何と醤油くれた
卵にかけて食べた醤油の美味い事!!
長期旅行に醤油は必需品だ
向こうのお肉は厚切りだが
スライサーの目盛りが大きいわけでは無い
薄切りに使ったことが無いだけだ
厨房の中に入って
ボクが目盛りをセットして
肉をすき焼き用にスライスしてもらった
その時いた日本人たちですき焼きパーティーをしたのだ
現地を離れる時に日本食でパーティーもなんだが
出発までローマの遺跡巡りをした
何処へ行っても
ネコ、ねこ、猫
皆、ご飯をくれるスポンサーがいたのだろう
大きくて幸せそうな猫ばかりだった
その後日本で自分が野良猫に
ロックオンされるとは(二度も)思いもしなかったが
この出来事もその後の人生に大きな影響を及ぼすのだ
チケットの期限ギリギリまで
現地で遊んだ
国鉄の社員食堂を見つけて
利用していたので
食事にも苦労しなかった
出発当日
アテネの空港はストライキがあった
何時間待っても出発便の案内が出ないのだ
それもあちらこちらの空港でだから
もうぐちゃぐちゃだった
結局、帰りもカラチで一泊となった
ストで遅れたためカラチからの便は
ジャンボ機に4、5人の乗客しかいない状態で
日本まで飛んだ
もちろん4座席の手すりを上げて寝て帰った!
帰って何をしようか!
とりあえずローマで決めたことがあった
成田から大阪まで歩いて帰ろう!
さあ、また楽しいぞその思いと共に
飛行機は無事成田に到着
そして第一回目の東京➡大阪の冒険が始まるのだ
そして次の冒険は新聞にも載るのだが
それはまた別の機会に